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『尽くしすぎたのでやめました。今さら後悔しても遅いです』〜帰らない人を待つのは、もうやめます〜
『尽くしすぎたのでやめました。今さら後悔しても遅いです』〜帰らない人を待つのは、もうやめます〜
작가: 八月 猫

第1章 第1話 今日はご飯いらない

작가: 八月 猫
last update 게시일: 2026-06-02 11:06:14

玄関のドアを開けた瞬間、部屋が暗いことに気づいた。

午後九時過ぎ。

いつもならテレビの音がしている時間だった。

「……ただいま」

返事はない。

分かっていたことなのに、少しだけ肩の力が抜ける。

私はヒールを脱いで揃える。

その横には、朝履いていった悠斗のスニーカーが無造作に転がっていた。

――また。

そう思って、すぐに頭を振る。

疲れてるんだよね、きっと。

今日は朝から会議があるって言ってたし。

私はしゃがみ込み、靴を揃え直した。

そのまま何気なく視線を上げる。

脱ぎっぱなしのパーカー。

ソファに置かれたコンビニの袋。

飲みかけのペットボトル。

たぶん、家を出るギリギリまでゲームしてたんだろうな。

苦笑しながらバッグを置く。

怒るほどのことじゃない。

恋人同士なんだから、これくらい普通だ。

……普通。

そう思いながらスマホを確認すると、悠斗からLINEが届いていた。

『今日、飯いらない。飲み会』

送信時刻は一時間前。

私は画面を見つめたまま、しばらく動かなかった。

「そっか……」

声にすると、思ったより部屋が静かだった。

冷蔵庫を開ける。

下味をつけておいた鶏肉。

切っておいたキャベツ。

卵焼き用に溶いていた卵。

今日はちゃんと食べてほしかった。

ここ最近、悠斗はコンビニ飯ばかりだったから。

仕事が忙しいのは知ってる。

疲れて帰ってくるのも分かってる。

だからせめて、ご飯くらいはちゃんとしたものを食べてほしくて。

でも、そういうことを言うと悠斗は少し嫌そうな顔をする。

『真琴って、最近ちょっと母親っぽい』

前にそう言われたことがあった。

笑いながらだったし、悪気はなかったと思う。

だから私も笑った。

『なにそれ』

軽く返して、その場は終わった。

終わった、はずだった。

でも今でも時々、ふと思い出す。

母·親·っ·ぽ·い·。

その言葉だけが、喉に刺さった小骨みたいに残っていた。

私は小さく息を吐いて、キッチンに立つ。

作らないわけにもいかなかった。

もう下準備までしてしまっているし、明日には材料が傷む。

油を温める。

じゅわ、と音が広がる。

静かな部屋に、その音だけがやけに大きく響いた。

一人暮らしの頃って、どんな感じだったっけ。

ふと、そんなことを考える。

何を食べて、どんなふうに夜を過ごしていたんだろう。

もう思い出せない。

五年前から、私の生活はずっと悠斗中心だった。

仕事終わりにスーパーへ寄るのも。

冷蔵庫にビールを切らさないのも。

休日にシーツを洗うのも。

全部、悠斗がいる前提だった。

唐揚げを揚げながら、私はぼんやり思う。

私、自分のために何かしたこと、最近あったっけ。

思い浮かばない。

ひとつ味見をする。

ちゃんと美味しかった。

外はカリッとしていて、中は柔らかい。

悠斗、この味好きなんだよね。

そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ重くなる。

帰ってこないのに。

私は無意識に二人分の皿を並べていた。

キャベツを盛って、レモンを添えて、味噌汁も温める。

そこでようやく気づく。

「あ……」

ひとりなのに。

テーブルの向かい側には誰もいない。

私はしばらく立ち尽くしたあと、ゆっくり椅子に座った。

「いただきます」

返事はない。

当然だ。

なのに少しだけ、寂しかった。

テレビをつける気にもなれなくて、私は静かな部屋で唐揚げを口に運ぶ。

美味しい。

ちゃんと美味しいのに、味がよく分からない。

スマホが震えた気がして、慌てて画面を見る。

通知は来ていなかった。

「……なにやってるんだろ」

思わず笑ってしまう。

たかが飲み会じゃない。

こんなの、今までだって何度もあった。

私は重い彼女にはなりたくなかった。

仕事の付き合いだってあるだろうし、男同士で飲みたい日だってある。

ちゃんと分かってる。

だから私は、文句を言わない。

帰りが遅くても。

連絡が短くても。

約束を忘れられても。

仕方ないよね、って笑う。

だってその方が、悠斗が楽そうだから。

そこまで考えてから、ふと手が止まった。

……あれ。

じゃあ私は?

私は、楽だった?

その瞬間、心の奥に落ちていた小さな違和感が、急に形を持った気がした。

私はスマホを手に取る。

『何時くらいに帰る?』

そこまで打ち込んで、止まる。

重いかな。

面倒くさいって思われるかな。

飲み会くらい自由に行きたいよね。

私は唇を噛み、文字を全部消した。

代わりに送ったのは、

『了解。お疲れさま』

それだけ。

数秒後、既読がつく。

でも返信はなかった。

私はスマホを伏せる。

別に、いつものことだ。

なのに今日は、どうしてこんなに苦しいんだろう。

食卓の向かい側には、空っぽの椅子。

皿の上には、最後の唐揚げがひとつだけ残っていた。

悠斗がいつも最後に食べるやつ。

私はそれを見つめたまま、しばらく動けなかった。

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